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大西つねき氏の「除籍」――れいわ新選組への攻撃を排する(4)

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 4回目の記事になります。そろそろ締めくくりに入りたいと思います。そのため、この記事のテーマをさらに狭い意味での「大西つねき問題」に限定することにします。

 私がこれまでの文章を書き始めたのは、れいわ新選組の発展を願って、マイナス要因を多少とでも除去する一助になりたいと思ったからでした。そのために書いておきたいと思ったことのうち、大西つねき問題と直接からめなくても済む部分は別記事にするという意味です。

 ちょっと以前に知って驚いたことに、総会直前の時点で三井よしふみ氏は大西氏が有料セミナーを開いている事実を把握していませんでした。
 候補者あるいは構成員の方々が、生活と政治活動の両面で多忙であろうことは分かりますが、ちょっとお互いについて知らなさすぎです。山本氏も、どうやらこの点で大きくは変わらないようで、こんなことを含めて、れいわ新選組がこれからさらに発展していくために乗り越えて行かなければいけない課題が――大西つねき問題にとどまらず――あると思うわけです。

 もちろん私でさえ感じてしまうことですから、他の関係者の方々も含めて、山本代表も問題を把握していないわけはないでしょう。ただ、その上で言うなら、山本さんはこの問題の優先順序を誤解している可能性があります。衆議院選挙への準備もさることながら、党組織のあり方の徹底的な再検討は是非とも最優先事項にしなければならないと私は思います。
 野原さんの離党問題をからめるかどうかは必ずしも不可欠ではありませんが、メンバーの全員で徹底的に話し合うべきではないでしょうか。

 前書みたいなものが延々と続くようで申し訳ありませんが、もう一つだけ書きます。
 今回の大西つねき「騒動」について、遅かれ早かれいずれは対応しなければならなかった筈の問題だったと私は捉えています。また、大西氏が離れたことも組織というものにとっておそらくある程度共通の(よくある?)流れの一つであり(大西つねき支持者は憤慨するかも知れませんが)あってしかるべきだった「党の新陳代謝」の一部分だったと考えます。(ツイートでは「ビートルズもブルーハーツもメンバーが不変ではなかった」という意味のことを書きました)
 あえて火に油を注ぐような言い方をするなら、大西氏が整理されたことはむしろ好ましいことであったと思う次第です。

 そして、そこまでは記事を書き始めた時からの認識でしたが、この二、三日で少々気持ちが変わって来たのは、支持者の人達についての捉え方です。
 大西氏が党にとって必要不可欠の人材などではなかったとしたら、氏の除籍を契機として――その規模はおそらくそんなに大きくはないでしょうが――れいわの支持者までもが離れていってしまうのは残念なことだ、そうこれまでは思っていました。

 大西氏が「整理」されてよかったのと同様に、れいわ新選組よりも大西つねきを上位に置くような「支持者」は別に離れていってもかまわない、いや離れていく方がいいのだと私は思うようになっています。
 多少とでも支持者の人数が――一時的には――減るのが確実だとしても、その支持者の存在が、れいわ新選組が国民的な政党になるのに障碍であったとしたら、その離反は歓迎すべきではないか、そこを経由することで、支持者が以前よりもさらに増える可能性が大いにあり得る、という考えです。

 さて本題に入ります。
 大西氏に関する問題についていくつもの論考を私は読み、視聴しましたが、肝心な点に触れていない気がしてなりませんでした。
 前回の記事に書いたように、「いのちの選別」はこれまで大西氏にとっての主要なテーマではありませんでした。著作の中でもまったく触れていないのが事実です。
 それにも関わらず、大西氏が勢いで口走ってしまったような主題に対して、まともに正面から取り上げる論考ばかりだったと感じたのです。

 安倍晋三を引き合いに出す必要はないかもしれませんが、森羅万象あるなか取り上げられなければならない問題は無数にあります。だから、問題が存在することをもって、その問題を論じる理由にするのはムリ筋です。
 あまた存在するなかで、なぜその特定の問題を取り上げるのかという観点が必要なはずです(まあ、そこにあまりこだわり過ぎてもいけないでしょう。時と場合によるというのが穏当なところか)。では、大西氏の内的な動機はどんなところにあったのか。

 大西氏といのちの選別についてです。
 上に書いたように、大西氏は日本の各地で有料の講演会(セミナー?)を行って来ました。コロナの蔓延に警鐘が鳴らされ始め、全国的に、3月以降は大勢の人が集まることを――感染防止の観点から――自粛するようになったのでした。山本代表も、政治活動として主要な位置を占めてきたにもかかわらず、その流れを受け入れて街頭の宣伝活動を中止するようになりました。
 それに同調することも不可能ではなかったのですが、そうはせずに、自分のセミナーを開催し続けたのが大西氏でした。

 大西氏は、コロナをあまり危険視していないようです。風邪に毛の生えた程度と言った認識でしょうか。だから、マスクもしないことが多い。
 これは、個人の判断としてあり得ないわけではありません。しかし、自己責任において行動するのだ、自分が感染してしまうことへの覚悟はある――というような考えだけで充分でしょうか。いや、氏の思考には他者への影響という契機が完全に抜け落ちていると私は思います。

 自分自身はいいとして、自分の行動によって他者に影響を与えてしまう可能性についてはどうなのか。自ら感染するのはいいとしても、そのために他者にも感染させてしまった場合の責任というものを氏はどう考えているのか。しかも、ことは多数が席を同じくする講演会ですから、自分から以外にも、参加者から参加者への感染がその場を契機として起こる可能性はさらに高いのです。

(セミナーが有料であることを問題視する方がいらっしゃいます。そのことに私も多少の違和感を持ちますが、それよりも党の方向と直接の関係がないセミナーにおいて、れいわ新選組のメンバーであるのを打ち出していたことの方が問題だと思います。この点、山本代表の対応も問われなければならない可能性がありますが、そのあたりは冒頭に述べた趣旨に即して、また機会を改めることにいたします)

 他者の感染に気遣って、自分の活動(もう少し露骨に言えば収入の機会)に制限を加えるのを嫌ったのが大西氏の選択だと言えます。そのことを一般化して正当化をはかったのが、コロナのために経済を縮小させてはいけないという彼の主張だと私には思われます。
 介護する若者と介護される高齢者の対比が論じられていましたが、実際はコロナ感染抑止と経済活動との対比こそが問われるべきだったのではないでしょうか。

 大西氏の主張は、コロナのための自粛によって経済が停滞してはいけない、もっと自由に活動することを奨励すべきだということでした。
 ただ、実践の持つ意味が状況によって左右されずにはいないことを閑却してしまってはいけません。
 つまり、感染した場合の対応がしっかりなされているかどうか、です。アベ自民党の腐敗政権がトップにある日本では、検査の体制もろくに用意されておらず、入院を受け入れる能力も甚だ不足しています。国がそういう状態にあるか、それともそうではないかによって結果はまったく違ってきます。

 いったん感染してしまった時のリスクが、充分な対応が用意されている場合と、そうではない場合とではまったく違うわけです。その如何を考慮せずに、どのように行動したらいいのかを一般的に論じるのは意味がないと私は思います。実際の状況を前提にして初めて妥当な対応が策定できるのであって、それを一切捨象してあれこれ論じるのはナンセンスというしかありません。
 そして、その点からすると、大西氏の主張は乱暴すぎると判断するのが妥当だろうと私は思います。
 要するに、状況をしっかり押さえた上で実践を考慮しないと、単に「そんなの自分の知ったコトじゃない」と言っているだけになってしまうのです。

 政治家としての大西氏を考えると、一番致命的なのは、彼には批判を受けとめる論理がないということです。
 大西氏が繰り返し言っていることの一つに「批判は何も生みださない」という主張があります。「みんなちがって、みんないい」と書いた金子みすずを連想させるような言い分で、一見して如何にも寛容な思想のようです。しかし、これは「私は他人の思想に容喙しない」という意味であると同時に「私の考えに口出しするな」でもあるのですね。
 有料セミナーで、講演のあとの質問を受け付けないことにしている大西氏にとっては、むしろ後者の意味合いが強いと言わざるを得ません。
 事実として、れいわ新選組の総会における大西氏の対応には、他人の批判を受けとめない姿勢が顕著であったことを複数の証人が指摘しています。

 大西つねき氏の支持者である方、そのために彼の「除籍」を機会にれいわ新選組の支持をやめてしまおうとしている方、一度これまでの経緯と大西氏の主張とを検証しなおしてみてはいかがでしょうか。


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