「集団的自衛権」の議論をするなら、必然的に「安保改訂」の問題が出てくるべきものと僕は思うのだが、どうもそうなっていない。これは、どう考えても不可避であるはずなのに、そうした声が殆ど聞こえてこない。
日本人は、一億総健忘症を病んでいるのだろうか。
いや、マスコミの怠慢を今さら問題にするつもりはない。はっきりさせてしまおうではないか。マスコミは社会の敵、民衆の敵である。これは、日本を考える際の与件であって、もはやその当否を議論すべき段階は過ぎている。
原発事故の検証らしきことをしたりと、紛らわしい記事の掲載などがあるのも事実だが、そういったものは、要するに“アリバイ”づくりとして行っているに過ぎないと見ればいい。今のマスコミは、単純に市民の敵であり、単純に叩きつぶすべき対象と見切って迷わないことが肝要だと僕は思う。
彼等を叩きつぶすための手段を僕たちは持っている。そこもはっきり認識しよう。テレビのスイッチを切り、三大紙と産経・日経などの新聞を購入しないこと、これを確信持って継続すればいいのだ。
話を戻す。
なぜ「集団的自衛権」かである。
これは、今まで言い続けられていたこと、歴史的推移を「健忘」しなければ、極めて明瞭であるはずだ。
日米安全保障条約の、いわゆる「片務性」がこれまで言われてきた。日本が外国から攻撃されたときには米国がその防衛に協力するのに対し、米国が他国から攻撃を受けたときに日本には防衛に駆けつける義務がない、という構造があると言うのだ。
このあり方を正当化するために、マッカーサーの甥(日本大使をしていた)が提唱したのが、日本は基地を提供するという形で貢献しているという論理だった。
自衛隊と憲法9条が矛盾しないという、どうしようもないデタラメを棚に上げてしまって、これまでの経緯を辿るなら、日本が米国の防衛戦に参戦できないのは、憲法が「集団的自衛権」の行使を認めていないからだった。
今、この集団的自衛権を認めるように「解釈」を変更するとなると、日本は米国の防衛戦に馳せ参じることが出来るようになるわけであり、いわゆる「片務性」は一挙に解消する。日本と米国は、同じ義務とその実行を保証し合う“対等な”パートナー同士になるわけだ。
となると、マッカーサーの甥が提唱した論理はもはや必要でなくなる。
日本が集団的自衛権を獲得したあとも、米国が日本に基地を置き続けるのなら、日本も同様に――米国を防衛するために――“日本軍”の基地を米国中に置かなければならないはずだ。そして、日本におけるのと同様に、何かことがあれば、民間の施設も含め、米国中のあらゆる施設を米国防衛戦のために、“日本軍”が接収できるように「地位協定」を結ぶこともしなければならない。
もし、それが米国のお気に入らないのならば、米国が日本に置いている基地もすべて撤収する必要があるだろう。
これが、今までの“安保”論議から来る――集団的自衛権が日本に認められた場合の――当然の帰結であるはずだ。
というより、これまでさんざん「集団的自衛権」が論じられてきたのは、安保条約のそういった改訂を目的とすればこそではなかったのか?
当然のことながら、米国が世界中のあちこちで展開する戦争に日本が参加しなければならない理由など存在しない。
米国の「本土」が他国からの攻撃にさらされたときには――もし「相互安全保障条約」をこれからも続けるのなら――応援に駆けつける“義務”があるだろう。
しかし、米国がカラスの勝手で海外に出かけていく戦争に、いちいちつき合う義務など日本にあるはずがないではないか。
シリアだ、アフガニスタンだと言って少しも憚らない、恥知らずの連中には一切耳を傾けないようにしよう。まさに彼等こそが売国の徒である。
自分の生まれた国を、他国からの侵略から守るために戦うのは、確かに崇高な行為かもしれない。しかし、必要もないのに、わざわざ海外に出かけて行き、その国の無辜の民衆を虐殺することに誉れなどあるべくはずもない。
安倍・自民党は「日本を取り戻す」などと公言している。これは上記のような、真の意味での日本の独立を言うのでないとすれば、いったい何を意味しているのだろうか。
安倍晋三は、憲法の改正は云々するのに、肝心の「日米安保」の改訂については何も言っていない。僕は、まったく理解に苦しむ。
いや、マスコミが民衆の敵であるのと同様に、自民党も民衆の敵であることを絶対に曖昧視してはいけない。
まずは、自分の頭でしっかり考えよう。政治が市民の理解を超えたものだと、なぜ思う必要があるのか。普通に、ごくごく単純に考えればおのずと答えは出てくるはずではないか。うそ八百ばかり言う政治家は「民衆の敵」である。難しいことは何もない。うそはウソに決まっている。彼等を叩きつぶすべく、心の炎を燃やし続けなければいけないと僕は思うのだ。