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人権について――ジェンダーと人権

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 ジェンダーの問題に関連して「人権」に言及しているいくつかのツイッターをみたが、概念の基本的な意味を誤解していると思われるものが少なくない。「人権」とは何かを分かっていない同士がそれをめぐって非難の応酬を繰り返しても、不毛な議論しか生み出せないだろう。以下、問題の概念について、基本的なところを整理してみたいと思う。

 肝心な話は、二点ある。それを最初に示しておこう。
  1. 「人権」とは国家と個人との関係を規定する概念であって、個人と個人の問題に関わるものではない。
  2. 「人権」は権利の一種であるが、「権利」は「義務」とセットになって初めて成立するものである。「権利」に言及するのなら、「義務」が確定されている必要がある。
「人権」は国家と個人の関係についての概念である

 教科書的な起源を言うなら、1776年の「アメリカ独立宣言」において謳われたのが公的な「人権」明文化の最初である。もちろん、その考え方そのものは、ルソーやロックなどによる思想を基盤にしており、ジェファーソンやフランクリンやアダムズの独創ではない。
 具体的には、こんな主張がされていた。

われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ。こうした権利を確保するために、人々の間に政府が樹立され、政府は統治される者の合意に基づいて正当な権力を得る。

 今の自民党は、「我が党は『天賦人権説』の立場をとっていません」などとアホなことをのたまわっているが、その問題はここでは棚上げしておく。
 約4年前に自公政権から安保法案が提出された際の「提出理由」では、次のような事態を想定した立法だとされていた。

我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態

 上の文面を見れば一目瞭然であるように、現代の日本における「人権」もその内容は約250年前の「アメリカ独立宣言」そのものなのである。

 つまり、「人権」は政府が確保しなければならないものとして、そもそも考えられてきたわけだ。「独立宣言」は、その本来的な勤めを英国政府がないがしろにしていることを指摘して、それが故にアメリカ側はそのダメ政府と縁を切ると宣言したのだった。

 国家という強大な権力機構は、放っておけば個人に対してどんな暴虐をふるってくるか分からない。それを防ぐために、国民の側の一定の権利をあらかじめ明記して国家をしばっておくのが「憲法」である。最近、ようやく共有されるようになってきた「立憲主義」の概念だ。
 
 つまり、「憲法」に明記されており、国家が保障する義務を有するものが「人権」だ。
 一つの指標として、「人権」が問われるときに引き合いにだされるのは「憲法」であるということに注意を喚起しておきたい。

「権利」と「義務」は1セット

 人権は権利の一種である。権利は必ず義務と対(つい)関係にあるものだ。これは、自民党の愚かな議員の主張するような意味で言っているのではない。
(権利、権利と権利のことばかり主張する国民はバカものだ、国防の「義務」を果たすものに与えられるのが「権利」なのだ――とかとか、ヒゲをはやした売国の徒が言っている。こんなアホなことを言う輩に国政を任せておくほど剣呑なことはない。が、それは今回は置いておこう)

 権利と義務がセットであるとは、いくら権利を設定しても、それに対応する義務を果たすものがいなければなんの実質もないという事情を指す。例えば、子供の「教育を受ける権利」は親の「教育を受けさせる義務」があって初めて意味をなす。また、国家がこれを保障することが、この権利を具体化させている。

 手っ取り早く債権を例に取れば話が早いだろうか。何億円、何兆円の「債権」(という名の「権利」)を持っていても、「債務」者に支払う気がなければ、ただの紙きれに過ぎない。債務があるとは、それを弁済する「義務」を負っているということであり、その義務が果たされることが担保され、必要に応じて補償されることによって「債権」という「権利」が意味を持つのである。

 冒頭に「人権」は個人と国家との関係にあるものだと書いた。これは、「人権」という権利に対応する義務を負う、その主体が国家であるという意味である。

 「人権」を葵の紋が入った印籠だと考えてはいけない。「神聖不可侵の人権」をいくら声高に叫んでも、だれもその前にひれ伏したりはしないだろう。セクシュアリティは個人が産まれながらに保有する不可侵の「人権」だ、などと言ってもそれは単なる言葉に過ぎない。そのようにアラマホシイというだけのだけの単なる「願望」を、根拠もなく「権利」にしてしまってはいけない。

 権利が権利であるためには、上述のように、義務が確立されていなければならない。もし、セクシュアリティが不可侵の擁護されるべき「人権」であったとして、それでは誰がそれを保障する義務を負っているのか。また、その義務はどこにどのように規定されているのか。ちょっと考えれば分かるように、セクシュアリティを擁護する義務など憲法に書かれていないし、そんな義務を規定した法律も存在しない。
 つまり、さんざん叫ばれていたセクシュアリティに関連する「人権」とは中身が空っぽの話なのである。

 「人権」が問題にされるときは、国家が義務を果たしているかどうかが争点になる。
(だから、民間の抗争でも「思想・信条の自由」などの「人権」が絡んでくると憲法の問題になり、国家が面倒をみなくてはならなくなる。これまでのところは、憲法ではなくて法律の範囲内の問題だとして解決をはかろうとしてきている)

 それに対し、個人と個人の間における問題は――「私人間」という言い方をするが――利害の衝突が争点である。それは、関係者が「トランス女性」であったり「シス女性」である場合も同じだ。
 こちらは「憲法」ではなく「法律」の扱いになる。TRAがどんな恣意的な主張をしようと、法律(広い意味での法律を言っているわけで、条例も含まれる)の規定に反するようなことは単純に非合法行為であるというだけのこと。

 ゴールド・フィンガーをめぐる騒動は、特に法律に反した事象が発生したわけではない。そこにあったのは、民間人の間における「利害」の衝突である。そこで問われたものは、崇高な人道的問題などではなくて、単なる調整の必要であった。
 対立するどちらの側も、何か誤解しているようだが、人類の未来に関わるような重大な「人権」問題などではなかったことを指摘しておきたい。

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