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ジェンダーについて 1

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たまたま私の手元に一冊の洋書がある。『The Penguin Dictionary of Sociolagy』という。N.アバークロンビー他の著者による「社会学辞典」で、その第2版(1988年刊)にあたる。
 この辞典で「ジェンダー」項目をみると、あのマーガレット・ミードの研究への言及があり、次のように書かれていた。



例えば、ミードは、社会の比較研究を通じて、ジェンダーの分化は、広く見られるものの、男女が担う社会的役割にはかなりの多様性があることを示している。社会的役割と生物学的性の間に、諸社会に共通する一般的関連性は存在しない。社会心理学においては、ジェンダー・アイデンティティを、生物学的に与えられたというよりも、子どものしつけの産物と見なしている。(訳文は『新しい世紀の社会学中辞典』141頁)



 これには驚いた。
 この「辞典」の初版は1984年である。ミードのサモア研究を実証的に否定したデレク・フリーマンの本『マーガレット・ミードとサモア』は1983年に出版されている。1984年の時点では、その成果を反映するにはまだ早すぎ、1988年の第2版も初版をそのまま踏襲してしまったのだろうか。
(書籍の出版以前から、その内容に相当することをフリーマンはある程度発表していたようではある)


 是非とも、「社会学辞典」のこのあとの版を確認したいと思ったので、もう少し調べてみたところ、ミネルヴァ書房というところから翻訳が出ていることが分かった。タイトルは『新しい世紀の社会学中辞典』で、原書は2002年に出版されている第4版が日本では2005年に、同じく1995年の第3版が1996年に翻訳出版されていた。


 図書館に行って、項目を確かめたところ、第3・第4の二つの版とも上に引用した第2版とまったく同じ内容であった。
 呆れてしまったが、改めて思いついて二冊の「中辞典」でマーガレット・ミードの項目を探してみたら、項目の末尾にデレク・フリーマンによるミード「批判」が紹介されていた。項目全体で65行になるうちの18行にわたる記述だ。3割弱の分量になる。


 最初にやっておかなければならなかったことをここに来て思いいたった。もう一度『The Penguin Dictionary~』を引っ張り出して「Mead, Margaret」を調べてみると、翻訳による第3・第4版とそっくり同様の記述が、既にその第2版にも存在していたのである。


 その後インターネットを通じて、デレク・フリーマン本人について調べてみると、『マーガレット・ミードとサモア』論争はいまだ決着がついていない形になっているようだ。学界の大御所がフリーマンの研究にいちゃもんをつけていたりする。
 そもそも、ミードへの情報提供者自身があれはホラ話だったと言っているし、サモアの人達がミードの見解をまったく認めていない。また、この情報提供というのも、たった3人の女性から通訳を介してなされたものに過ぎなかった。現地の言葉を――本人は数語を知っていることをもって分かっていたと主張しているようだが――まるで習得しておらず、滞在期間もただの2カ月である。


 素人目からすると、ミードとフリーマンのどちらの言い分が正しいか、疑問の余地などないと思うのだが、それでは都合の悪い人達がいるのだろう。
 つまり、直接ミードに依拠したものではないとしても、ミードの議論を根拠として論文を書いた学者に依拠して論文を書いた学者に依拠して論文を書いた学者……という具合いに続くこれまでの蓄積は相当な広がりがあるに違いない。親亀にこけてしまわれると子亀・孫亀・曾孫亀たちもこけざるを得ない。それは大迷惑だという人達が大勢いるに違いないと思われるわけだ。
(ちなみに、英語版では存在する「デレク・フリーマン」項目が日本語版「Wikipedia」には未だに存在していない。『マーガレット・ミードとサモア』の日本における翻訳出版は1995年、原著書が出版されてから12年も後である事実と合わせて、日本にも大迷惑に感じる人達がかなりいることを想像させる)


 その一例と考えてもいいだろうか、Googleで検索した結果引っかかった記事にこんなのがあった。(ちなみに、上に書いたミードへの情報提供が「ホラ話」だったという証言は、ビデオ撮影されているのである)



もっとも、フリーマンの実証主義づくめのミードの「嘘」の暴露のやり方にまったく問題がないとはいえない。ファアプアのインタビューがビデオカメラに収録され、またサモア語のテキストも適切に英語に翻訳されたとしても、今度はファアプアがカメラを前に、私たちに冗談を言っていないという確証はどこにも得られないからだ。ミードの話が伝聞による誤りであり、映像機械による記録が正確というのは、人間の真実について主張するにはあまりにもナイーブすぎる見解だろう。
  デレク・フリーマンによる「検証」
  http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/150707mead_in_samoa-05.html



 記事の筆者は池田光穂という人。記事タイトルの「検証」がかぎかっこつきなのも注目される。
 たぶんそうだろうと思いつつ、この池田氏のプロフィールを検索してみたところ、やはり「文化人類学者」の一人であった。フリーマン説が都合の悪い人達の一員だったことになろうか。


 人文科学系の研究というのは、どうも厳しさに欠けると思う。
 かなりまっ黒けの反証があっても、強引に言い張り続けようと思えば、取り敢えずそれが可能なのである。
 アラン・ソーカルと ジャン・ブリクモンによる『知の欺瞞』が引き起こした騒動でも同じ現象が見られた。二人の議論は明白なのだが、それでも「いや、違う」と言い張る学者さんが沢山いた。お前たちはラカン先生を理解しそこなっているのだと決めつけるのである。二人の読み方が間違っていると主張して、何の反省も示さない人が多かった。


 ラカンの文章が、意味不明のタワゴトであるというソーカル/ブリクモンの主張に反証するためには、ただ一つの方法しかないはずだと私は思う。
 それは、引用されたラカンの文章を逐語的に解説してみせることである。彼が持ち出した数式はかくかくしかじかの意味を持っており、文章全体の言わんとすることは、かくかくである、と敷衍してみせるのだ。それ以外のまっとうな反証はあり得ず、これが出来ない限り、すべては空虚な言い訳、言い逃れと思わざるを得ない。
 私の知っている限りで、そうした「逐語訳」は存在しない。ラカンをありがたがっている本人達が、まるで分かっていないことは明らかである。


 ところが、あの本の出版以来すでに20年になるというのに、いまだにラカンを云々してやまない人達が引きも切らない。
 別に数学や論理学の式に限らないのだ。ラカンのご高説には、まず「反証可能性」がゼロである。科学というのは、あくまでも現実の事象に対して意味を持つものである筈だが、ラカンはご高説の根拠となる事象を何も挙げない。多くの事象を検証した上で、そこから帰納して出したという「理論」ではない。理論の正しさは、その理論からさらに演繹される事象を導き出し、実際にそうした事象が存在することが発見された時に確立される。ところが、ラカンにはそんな事例はとんと当てはまらない。


 n個の事象をすべて説明できることをもって正しいとされた理論もn+1個の事象を説明できないときに、反証されてしまう。要するに、理論では説明不可能な事象が発見されたときにその理論は終るわけだ(もちろん、ニュートン力学のような形で生き残ることもあり得ないわけではない)。


 ラカンの場合は、それこそn個もくそもない。
 なんの根拠もなく持ち出された話を信じるか信じないかである。
 私としては、勃起したペニスがどうこういうホラ話にまともに付き合う気にはなれない。鏡を見ることで自己イメージを獲得するなんて、バカバカしいも甚だしい。
 
 理系の研究では決してあり得ないことが、社会科学で通用している。つまり、もともとの話の根拠がとっくの昔に失われているのに、そのことに頬かむりをし続けることが社会科学では可能であるようだ。
(続く)


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