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飯山陽氏『イスラム教の論理』周辺

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 しばらく前、ネットで飯山陽・池内恵両氏の対談を視聴して非常に居心地の悪い思いをさせられた。中田考氏とは違って、お二人ともイスラム教を信仰してはいないようだが、それにしては腰が引けすぎていて、まともな話ができない。飯山陽さんの著書『イスラム教の論理』の“売り”はイスラムを論じて「逃げも隠れもしない」本だとのこと。しかしながら、この対談では逃げまくり隠れまくっているように思われたのである。

 もちろん、お二人があの五十嵐一(『悪魔の詩』の翻訳者)さんのような結果になることを恐怖して、まともなイスラム教批判を避けているのだとしたら、それを非難しようとは私は思わない。しかし、それならそれで、そういうものとして一貫した言動をとるべきなのではないかとは考える。
 たとえば、『イスラム教の論理』読後の感想を綴ったツイートに、飯山氏がリツイートしたのをいくつか私は読んでいる。コメントなしのリツイートが多数で、著書の反響を把握するための資料にでもしているのであろうか。

 で、何が言いたいかというと、飯山氏がリツイートしたツイートの中には読書をきっかけにしてイスラム教に対して肯定的な興味を持ったことを表明するものがけっこうあったのだ。
 つまり、本来の意図は知らぬが、著者は結果としてイスラム教の布教に加担していることになる。それでいいのだろうか。

 先の対談に話を戻すと、飯山・池内両氏が一致して主張されていたのが、イスラム批判の不可能性であった。
 イスラムに対するあらゆる批判は、この1400年の間にすべて反駁し尽くされている、とおっしゃるのである。
 私はイスラムの教えに詳しいものではないが、論理的にあり得ない主張だと思った。お二人の主張は議論の余地なくおかしい。

 イスラム教の根本は、モハメッドが間違いなく神の使徒(それも“最後の”使徒だというのだから始末が悪い)であり、「コーラン」が神の言葉そのものだというところにある。
 しかし、どうひっくり返っても「コーラン」が神の言葉であることを当の「コーラン」を根拠にして立証などできるはずがない。論理上、それは不可能だ。

 神については今のところその存在も非在も完璧には証明できていないことになっている。存在の証明ができていないからには、神についてとりあえず議論の余地があるとしなければいけない。
 ところが、飯山・池内両氏がおっしゃったことは、要するにイスラムにおいては神の存在が完璧に証明済みだと言ったのと同じである。それはおかしいでしょう、と私は思うのだ。

 中田考氏などは、この1400年の間、一字一句も訂正する必要なく通用し続けてきた「法」など他に存在しない、神の「法」だからだ、と言っている。
 これは、話が逆であって、無理な解釈を駆使して、そこまで硬直しまくった運用をしてきたというだけのことではないのか。

 サウディアラビアにしろインドネシアにしろ、「イスラム法」に完全に準拠した統治が行われている国など現在は存在していない。いわゆるイスラム過激派が「イスラム法」のみに基づいた国家運営をするべきだと騒いでいるのは、実際にはそうなっていないからである。また、なぜそうしないかと言えば、そんなことをしたらまともな国などつくれないからだ。

 飯山・池内両氏が、神を冒涜するものとして暗殺されるのを回避するために、『コーラン』が神の言葉であることに疑義を呈しないのはいいかもしれない。
 しかし、イスラムの考え方がそれなりに首尾一貫した正当なものであると主張するのはどうだろうか。たとえ日本人の大多数の常識と隔絶しているとしても、頭から否定するのではなく、理解する努力をするべきだと飯山さんは主張している。
 しかし、逆に言うと、いくら理解しても隔絶が解消するわけではない。

 飯山さんは、ISを擁護してはいない。
 と私は受け取っている。
 「逃げ隠れ」とは言わないが、その辺の論理展開は非難の端緒を作らないようにしていると思う。
 飯山さんが言っているのは、ISを一概に否定することはできない、イスラムを騙った暴徒に過ぎないと決めつけることはできない、ということだ。
 しかし、否定しないのは、実際として肯定とどこが違うのだろう。

 ISは残虐非道だし、奴隷制を当然のこととするし、めちゃくちゃひどい。
 でも、あれもイスラムの一形態、一部である。

 だとしたら、「一概に否定できない」ではなく、こういう道筋にはならないか。
 あれがもしイスラムであるのなら、イスラム自体がめちゃくちゃなのだ、と。

 このあともう少し続けますが、今回の最後に一つだけ言っておきます。
 私はイスラムだけを否定的に考えているのではなく、いわゆるアブラハムの宗教全体を批判したいと思っているのです。
 にしても、イスラムとユダヤ・キリスト教の関係は、大川隆法と高橋信次みたいなもので、前者がよりいかがわしいと言えるでしょうか。


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